8 件の資料が見つかりました。
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高鍋町広報 No.10 1960年4月号 高鍋町広報
No.10
1960年4月号宇土持氏が所領でありましたがその後伊東氏島津氏となりましたけれども天正十五年筑前より秋月種長公が当財部城主に封ぜられてから第十代和服公藩籍を宰遷せらるゝまで実に二百八十余年舞鶴城下町として発達四季各種の市等が立ち殷賑を極...
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町報たかなべ No.77 1968年3月号 町報たかなべ
No.77
1968年3月号二十年間つづき、天正六年(一五七八年)に島津氏が豊臣秀吉に降ろことで秀吉は、築前(福岡県)の秋月種長公を財部に移し三万石の下にあたるからです)このほか、種長公が特に力を人からかたのが、二の丸、三の丸であったようです。この...
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町報たかなべ No.86 1969年7月号 町報たかなべ
No.86
1969年7月号て君臨しましたが、天正五年(一、五七ヒ)島津氏に決戦を挑んだのでした九月十五日には、大友軍の先陣が芙々川(耳川)を渡って、百町原(ひゃくちょうばる)の北方浅付山に陣を構え十月二十日には総兵の到将が終りいよいよ高城攻めがは...
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高鍋町広報 No.126 1975年3月号 高鍋町広報
No.126
1975年3月号日向の国内に住むようになってから、伊東、島津氏から秋月の先祖代々の居城となり、延宝元年正月三代種信の頃「財部」を高鍋に改めております。明治になって幕府は大政を奉還。高鍋藩も明治二年六月に封土を奉還して八月に高鍋県が設置さ...
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町報たかなべ No.175 1981年1月号 町報たかなべ
No.175
1981年1月号財部(たからべ)と称し、上持氏、伊東氏、島津氏について、秋月氏時代の千六百七十三年に高鍋と改めました。近世の城下町の形態を整えはじめたのは十七世紀からです。秋月氏藩政の概要をみると、学問・武芸のけい古場の開設、救米対策、...
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広報たかなべ No.308 2000年11月号 広報たかなべ
No.308
2000年11月号財部(たからべ)と称し、土持氏、伊東氏、島津氏を経て、秋月氏時代の1669(寛文9)年に高鍋と改めました。近年の城下町の形態を整え始めたのは、17世紀からです。秋月氏藩政の概要を見ると、学問・武芸のけいこ場の開設、救米対...
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広報たかなべ No.309 2001年1月号 広報たかなべ
No.309
2001年1月号財部(たからべ)と称し、土持氏、伊東氏、島津氏を経て、秋月氏時代の1669(寛文9)年に高鍋と改めました。近年の城下町の形態を整え始めたのは、17世紀からです。秋月氏藩政の概要を見ると、学問・武芸のけいこ場の開設、救米対...
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広報たかなべ No.372 2011年9月号 広報たかなべ
No.372
2011年9月号ばらしい施策が数多く見ら土持氏、伊東氏、島津氏を経て、秋月氏の時代に高鍋と改めました。高鍋町は、持田古墳群からも分かるように古い歴史を持つ町です。古くは、財部(たからべ)と称し、続けてきました。年に高鍋町は上江村(上江村...