53 件の資料が見つかりました。
-
高鍋町広報 No.10 1960年4月号 高鍋町広報
No.10
1960年4月号ねております。殊に種茂公即ち静観公が藩校明倫堂を創立され教育立国の大精神を示されて以来多くの人材が輩出し現代に於てさえ本町を文教の地と称する人々かおる程有名となりました。後人達江篤くとこの事を肝に銘じて特に青少年の教育に...
-
町報たかなべ No.57 1964年8月号 町報たかなべ
No.57
1964年8月号杉鷹山公平清観公その他幾多の名士を育てた明倫堂があった。これが高鍋学校となり、多くの天下の名士を輩出しました。のちに郡立農学校から現在の県立農業高校となりました。そしてその伝統、その学風は他の追随を許さぬものがあり、かっ...
-
町報たかなべ No.67 1965年10月号 町報たかなべ
No.67
1965年10月号利をはかられました。更に安永七年には藩校明倫堂を建設し、学規を定め大いに学事の奨励をはかり、開校式に臨んで親しく告辞をのべられま第七代藩主秋月種茂公は、寛保三年十一月の生まれ。幼名を黒帽子または兵部と称し、宝暦十一年五月...
-
町報たかなべ No.76 1968年2月号 町報たかなべ
No.76
1968年2月号と思います」安田「明治のこうした先哲は、明倫堂の教育精神から生まれた人たちだと云えますがこの明倫精神が現在の教育の中で生かされていないのかも知れません」尾崎「しかし文教の地であったことが、批判が先に立ったり、まとまって一...
-
町報たかなべ No.81 1968年12月号 町報たかなべ
No.81
1968年12月号織が構成されています。教育の面では、藩校明倫堂のほか、藩内の福島(串間市福島)椎木(しいのき=木城村)耳津(みみつH‥日向市美々津)都農(つの=都農町)平田(へだ=川南町)小池(おいけ=川南町)の六つの郷学があり、文武両...
-
町報たかなべ No.84 1969年5月号 町報たかなべ
No.84
1969年5月号原下駄で竹の皮の緒を自分で作ってはいた。明倫堂内を区別して両斉とし、小学生を教育する処を行習斉といい、八、九才から入学した。大学生を教育する処は著察斉といって十五、六才から入学した。また、邸内別に一宇を設けて寄宿生を置き...
-
町報たかなべ No.85 1969年6月号 町報たかなべ
No.85
1969年6月号者は自勘(自費)で遊学することができ仁。明倫堂には、前に述べた切偲楼(せつしろう)という寄宿寮があり、寄宿生には手当が支給されていた。その手当は一人扶持(ぶち)即ち年五俵が定給となっていた。なおこのほかに夜学のために油が...
-
町報たかなべ No.87 1969年8月号 町報たかなべ
No.87
1969年8月号)所へ入りて大塚太一郎(観瀾―かんらんI明倫堂教授で本藩実録の編者)へ書を寄す。江戸勤め也。その父は在へ行く。一夜に入りて松本村在に龍雲寺(りょうおんじI禅宗)安養寺(あんにょうじa浄土宗)...
-
町報たかなべ No.89 1969年9月号 町報たかなべ
No.89
1969年9月号。千手春太郎返礼として来る寝ねて知らず。明倫堂という由。庄六おそきとて止むるによりて宿す。老父八十二なるに其祖兄年-日常生活の中での読書―そこで日常生活の中で、親の方から逆に「この花何という花か知っている」こんな問いかけ...
-
町報たかなべ 町民の日特集号 No.4 1969年9月号 町報たかなべ
町民の日特集号
No.4
1969年9月号たちが建学の志もかたく勉め励んでいるが、明倫堂の伝統を誇る高鍋が文教の地としてさらに一段の風格を備えることであろう。また、一ッ瀬川総合開発事業の決定をみたことも画期的なことであった。永谷、堀の内、さらには持田と圃場整備は...
-
町報たかなべ No.100 1970年8月号 町報たかなべ
No.100
1970年8月号、高鍋秋月藩のこと、農業(施設)の歴史、明倫堂と学問のこと高鍋の古墳などを勉強しています。郷土史講座郷土の歴史を残そう高鍋には古い歴史の中にかず多くの伝統や民話があります。しかしこうした古い伝統歴史を伝える人が少なくなり...