30 件の資料が見つかりました。
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町婦協便り No.1 1959年10月号 町婦協便り
No.1
1959年10月号明朗な社会をつくるために精進され、ことに終戦後のめまぐるし諏fでに急進している社会に良く対応されて来られたその功績は誠に顕著なものがあり全く婦人ならではの感か深くする次第でおやます。この機会を通じで皆様方に深甚の敬意か表...
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高鍋町広報 No.17 1960年11月号 高鍋町広報
No.17
1960年11月号で出場満場を大笑いさせました北高鍋分団は終戦後の欠乏時代から急速に発展した現今の電化時代まで十年間の時代風俗行列で、今更ながら時の流れを痛感させながら、この頃まだ子供だった人た。上江分団は浦島太郎の凱旋で婦人鍋釜楽団を先...
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高鍋町広報 No.19 1961年1月号 高鍋町広報
No.19
1961年1月号わたってこの配慮で執ってまいりましたが、終戦直後と異なり最近の町村行政は非常に複雑化し事務量は年と共昭和三十六年の新春を迎え皆々様と新年の寿を倶にいたします事は、私にとり至幸の欣びでございまして、心から御一同の御多幸を祝...
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高鍋町広報 No.29 1961年11月号 高鍋町広報
No.29
1961年11月号謹しんで御逝去をお悼み申上げます。故人は終戦後高鍋に引上○選挙の自由の保障1、投票の自由投票の自由は秘密を守ることです。強迫されたり、差別待遇をうけたり、買収されたりしては真の自由な投票はできません「すべての選挙における...
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町報たかなべ No.55 1964年6月号 町報たかなべ
No.55
1964年6月号かっているのであります。日田市の場合は、終戦後、河川改修用地買収がなかなか困難だったので建設省が市当局で用地買収をやれということになり、市は特別会計を設げて用地の買収をおこないその後、宅地造成などの開発事業をやってきたの...
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町報たかなべ No.57 1964年8月号 町報たかなべ
No.57
1964年8月号場合は六年以内に死亡したもの)2、戦地(終戦後軍人恩給が停止されてから遺族援護法が制定されるまでの期間、すなわち戦没者の妻が昭和二十一年一一月一口以後に再研二1実上の婚姻関係を偕谷)したが、昭和二十七年四月二十九日までに...
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町報たかなべ No.62 1965年2月号 町報たかなべ
No.62
1965年2月号ぬ敵機の爆撃に心身共にっか牡はて、やっと終戦になりホツとしたのもつかの問、九月十七日、十八ロの二日間、豪雨を伴たった枕崎台風が襲来し、つづトて十月十目、十一目、十二口、十三日の四日開、襲来した阿久根台風によって降り続トた...
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町報たかなべ No.70 1966年3月号 町報たかなべ
No.70
1966年3月号、毎年招魂の祭典を催していましたが、あの終戦の混乱によって、その碑はこわれ放置されてきました。このたび、有志の方々の提案によって、ようやくこの復元の運動がさかんになってきました。つい先口は、高鍋高校生徒会のまごころにこも...
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町報たかなべ No.71 1966年5月号 町報たかなべ
No.71
1966年5月号った。その後第二代の松が植えられていたが終戦の年の台風に折れ、枯れてしまった、今から一八七年前の、安永八年に建てられたという歌碑が残っている。琴ひきの松は、むかし、源重之が日向守たりしとき「白波のよりくる糸を緒に蚊口浦の...
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町報たかなべ No.76 1968年2月号 町報たかなべ
No.76
1968年2月号のだから仕方がない。この趣味の手はじめは終戦直後からであり、丁度その頃・日本鶏の各品種が絶滅寸前にあったので、これを保存したいという下心から始めたもので、かれこれ二十三年になろうとしている。日本全国から日本鴻を集めたので...
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町報たかなべ No.77 1968年3月号 町報たかなべ
No.77
1968年3月号高鍋農学校卒、同十年満鉄人礼、十二年から終戦まで南満州工業甘木市議一行が″ツゲの木々を植える昨年十月一目(町民の目)高鍋は陥岡県寸木巾と夕姉峠祁市4の縁結びをレまし仁かそのけ木市の議貝さん祀らが高鍋町を訪問。一行は井上0...
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町報たかなべ No.80 1968年11月号 町報たかなべ
No.80
1968年11月号うがいぺべと蔭‐を利かかるぐらいである。終戦後は、みんなが蚊‐の浜で塩だ矢石してい仁頃、彼は術馬車も挽いてみた。時々、電柱に馬をつなぎ忘れて、ヤミ焼酎を二、三日も呑みつダけていたという伝説もあるほど底抜けの豪傑である釣り...